東京都交響楽団第753回定期演奏会を聞いて

 昨日2013年6月18日 東京文化会館大ホールで大野和士さん指揮の都響定期でブリテンの戦争レクイエムを聴いた。直前になってこのコンサートがあることを知ったので急いでチケットを探してみたがもう完売のようだ。知り合いの都響の団員さんにダメもとで聞いてみたらなんとか招待してもらえた。大変ラッキーである。

 このブリテンの曲は実は30年以上オケを弾いていて一度も弾いたことがないし、コンサートで聞いたこともない。録音などでは断片的に聞いたことがあるがどうも苦手と言うイメージが強い曲だった。第一どういう構成でどういう曲なのかすら知らなかった。少し早めに行ってプログラムの解説を読んで一応の知識を仕入れる。読みながら思い出したが、初演のときテナーのピーターピアーズとバリトンのフィッシャー・ディスカウは決定していたが、ソプラノのガリーナ ヴィシネフスカヤをソ連から呼んででいたがソ連当局が曲の性質のせいで渡航許可を与えず別のソプラノに変更せざるを得なかったというエピソードがあったことを思い出した。ブリテンは第2次世界大戦に関わった国を代表する歌手(すなわち、イギリス、ドイツ、ソ連)にこの曲の世界初演を歌って欲しかったと言うことである。

 ブリテンは実は僕にとってはちょっと厄介な作曲家で恥をしのんで告白するとチェロのレパートリーですら、無伴奏ソナタを少しと、ソナタをかじった程度で、チェロ交響曲は楽譜すら持っていない。無伴奏ソナタは近いうちにコンサートのプログラムに入れる予定だが。オペラではシェイクスピアの台本を音楽史上初めてそのまま使った「真夏の夜の夢」はブリテンの助手だったイギリス人指揮者(確か、ウッドフォードと言ったと思う)と弾いて大層感激した記憶がある他は、有名な「ピーターグライムス」や「ビリーバッド」なども弾いたことも聞いたこともない。どうも苦手意識が先立つ作曲家なのでちょうど良い機会だった。

 さて、文化会館大ホールは大入り満員だったのがビックリ。大野さんが今回都響の音楽監督に就任したからなのかもしれないがそれにしても、大規模な編成とは言え地味なこの曲でこれだけの聴衆とは、やっぱり東京というところは底知れない音楽都市だと思う。しかもこう言う演奏会は大抵始まったらすぐコックリコックリする人があちこちにいるはずなのに全くいない。ええ、、、この曲って自分が知らないだけでひょっとして誰でも良く知っている、超有名級の曲だったんだろうかと不安にさえなる。

 いよいよ曲が始まった。Requiem aeternam と鐘の音とともに始まるラテン語の普通のレクイエムの教典である。このあとテナーとバリトンのソロは戦争を告発するオーウェンの詩(家畜のように死んで行く兵士たち)と通常のレクイエムの教典とが交互に現れて来る構成になっている。この冒頭は僕にはけっこう退屈した。演奏が?いやたぶんこの辺が僕のブリテン苦手症候群の一部で、何と行ったらいいのかのっぺりとした、そう魅力的とはいえない旋律線(単旋律で和声もシンプルだ)が低弦から金管や弦等に移って行くだけである。ここで寝込む人がいなことに反対に驚いたくらいだ。テナーの前述のソロ(オリヴァー・クックと言う韓国人が非常に良い。どうして韓国人なのにこういう名前なんだろう)が出てくる頃から少しずつ音楽が変化して来る。この2人の男声の時はオケの後方に配置された小編成の別のオーケストラが演奏する仕組みになっている。やがて合唱が Kyrie eleison Christe eleison を歌いだす。確かに面白い構成だ。こういう構成的アイデアはブリテンの得意とするところではなかろうか。

 曲は一番長い第2部の「怒りの日」から聴くに連れてこの退屈感は吹っ飛んでしまって、最後に合唱がアカペラでF durに見事に着地するところはゾクゾクとする感動を味わった。今度スコアを買って少し勉強しなければならない曲だなと思いつつ帰宅した。

 合唱を聴いてビックリした。もの凄く統率がとれている。はっきり言うとちょっと統率がとれ過ぎていて気持ちが悪いくらいだった。(晋友会合唱団。どういう団体なのか良く知らない)いや、もっと猥雑で合っていない方がいいなどと言うつもりはないが、何かが物足りない。それは個と言うものが完全に押し殺されて全体の中に完全に埋没しているからの様に思える。少し怖い。この感想は日本のオーケストラを聞いていても時々思う感想に近いことがわかった。昨日の都響の演奏は大変高度に訓練され一糸乱れぬ素晴らしい第一級の演奏だったと思う。オーケストラという代物は本当に世界中上手くなった。フランスもパリのオケだって70年代頃までは、もっと猥雑で「ヤバい」音があちこちでしていた。地方のオケなどはアマチュアレベルぎりぎりと言うところも沢山あった。ドイツだってベルリン、ミュンヘン、ハンブルグ辺りのいわゆる当時のAオケは別にして、ちょっと小さい街の劇場オケ、放送オケはそんなもんだった。しかし今やそんなオケも入団試験はちょっとした国際コンクールなみの難しさになっている。音楽家にとっては他に安定した収入源になる職場がめっきり少なくなったからだろう。いきおい、オケマンは親方日の丸(ヨーロッパの場合は日の丸じゃないが)意識がどんどん薄れ、自助努力という方向に向かいだしたのはベルリンの壁の崩壊の頃からだろうか。いまや、ベルリンフィルとフランスの田舎のオケの差はめをつぶって聞いたらわからないかもしれない。

 話を元に戻すと、しかし都響に限らず日本のオケを聞くとなんとなく物足りない何かを感じない訳には行かない。それが何なのかいつもよく解らなかったがこれがたぶん答えだろう。「個」が聞こえてこないのである。「個」が全体の中に埋没している。オーボエやクラリネット、ホルン、大オーケストラの後ろに配置された小オーケストラの様々なソロ。全て文句の付けどころがないくらい素晴らしい演奏だったが、奏者の表情というか「顔」が見えてこないのだ。なんとなく顔の見えない役者さんが上手にセリフを言っている映画を見ているかのような歯がゆさがある。むやみに個を主張しすぎるのも鼻につくが、あちこちに散りばめられたちょっとしたソロを署名入りで聞きたいと思うのは僕だけだろうか。

ああ、津留崎さんは個人主義の国フランス育ちだからと言われそうだが、、、


 

 

 

                      

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